1600年のロンドン


London Bridge
      ロンドン橋
 1600年のロンドンは、城内に人口75000人、城外の周辺地域にはその約2倍の人口を抱え、急速に発展しつつありました。町のひとつの中心はロ ンドン塔で、国中の囚人が収監され、あるいは死刑執行された要塞でした。もう一つの中心はテムズ川に架かるロンドン橋で、 小さなアーチがいくつも連なる構造の石橋でした。橋の上には、多くの店が立ち並び、小さな建物さえも造られていたそうです。時々、橋は補修を必要とした  −  「ロンドン橋落ちた」という子供の歌にあるように − のですが、1832年まで橋は存在し、そして、モダンな新しい橋に架け替えられました。この新しい 方の橋は、今、アリ ゾナにあります。**

Elizabeth I
エリザベス1世

     女王エリザベス1世の下で、ロンドンは商業の中心地として栄えました。1585年から1587年にかけて、北アメリカの ロア ノーク島(現在の ノースカロライナ州にある島)へイギリス人が始めて殖民を行いましたが、これは短期的なものに終わりました。しかし、1588年にイギリスがスペインの無 敵艦隊を 破ったことにより、イギリスの北アメリカ大陸への本格的な移民進出が可能となったのです。そのおかげで、1606年の、バージニア州ジェームスタウンへの 移民は 成功しました。ちなみに、1600年の大きな出来事と言えば、かつてのエリザベス女王の寵臣であったエセックス伯爵が女王の逆鱗に触れ、捕らえられたこと でしょう。そのため、エセックス伯爵は、翌年に死刑に処せられてしまったのでした。

 ロンドンの町は人で溢れ、不衛生でした。そして、ねずみが大量発生し、ペストが蔓延しました。ペストは特に夏期に流行 し たので、皇室は夏の間、地方に疎開することさえあったそうです。ギルバート始め医師たちは患者への対応に追われましたが、ねずみがキャリアとは知られてい ない時代のこ とであり、医師たちにはなす術もありませんでした。ギルバートは1601年に皇室の侍医となりましたが、そのギルバート自身も、1603年にペストで他界 することと なってしまったのです。

シェークスピアの天才的創造性はこの頃、絶頂期を迎えていました。テムズ川の岸に以前あった劇場跡に、円形のグローブ座が1599年に造られ、ハムレットの劇はここで上演されまし た。1599年から1600年にかけては、『ジュリアス=シーザー』、『十二夜』、『お気に召すまま』が、1600年から1601年には『ハムレット』、 『ウィンザーの陽気な女房たち』が公演されました。ギルバートも、その中のいくつかはきっと観に行ったことでしょう。


** アリゾナのハバス湖には、新ロンドン橋のレプリカがあります。新ロンドン橋の雰囲気をかもし出すため、新ロンドン橋に実際に使われていた石を持ってきて敷 き詰 めたとのことです。このレプリカは、重厚な橋梁の張り出し部分は取り払われてなくなっているものの、1832年に建てられた新ロンドン橋の外観をよくとど めています。
(情報提供者のジョン・クレーブン氏に感謝します)

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原著者:   Dr. David P. Stern
原稿更新日 2001年11月25日