News and Announcements [in Japanese]
地磁気センターニュース


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 地磁気世界資料解析センター News No.99 2006年9月28日
 
 
 
1.新着地磁気データ
 
    前回ニュース(2006年7月31日発行, No.98)以降入手、または、当センターで入力したデータの
うち、主なものは以下のとおりです。オンライン利用データの詳細は
(http://swdcwww.kugi.kyoto-u.ac.jp/catmap/index-j.html) を、観測所名の省略記号等については、観測所カ
タログ(http://swdcwww.kugi.kyoto-u.ac.jp/catmap/obs-j.html) をご参照ください。
また、先週の新着オンライン利用可データは、
  (http://swdcwww.kugi.kyoto-u.ac.jp/wdc/onnew/onnew-j.html)で御覧になれ、2ヶ月前までさかのぼること
 もできます。
 
 
      Newly Arrived Data
 
        (1)Annual Reports and etc.
 
       SOD, QVJ, HAN, NUR, (Apr. - Jul., 2008), NGK (Jul.- Aug., 2008)
 
 
    (2)Kp index: (http://swdcwww.kugi.kyoto-u.ac.jp/kp/index-j.html)
 
       Jul.- Aug., 2006
 
 
2.Dst指数、AE指数とASY/SYM指数
 
    2006年8月分までの1分値ASY/SYM指数を算出し、ホームページに載せました
 (http://swdcwww.kugi.kyoto-u.ac.jp/aeasy/index-j.html)。
 
 
3.Provisional Geomagnetic Data Plots について
 
  世界各地で測定された地磁気1分値データをプロットしたProvisional Geomagnetic Data Plotの2006年
 3月までのポストスクリプトファイルが利用できるようになりました。図の形式は2日分が1画面です。
(ftp://swdcftp.kugi.kyoto-u.ac.jp/data/pplot)。
 
 
4.亀井豊永助手を追悼する
 
   当センター職員、亀井豊永助手は、9月3日逝去された。享年58。
 
 
       
 
 
亀井氏は、昭和46年京都大学理学部を卒業後、昭和48年京都大学大学院理学研究科修士課程を修了された。
米国海洋大気局(NOAA)に昭和52年から同54年まで2年間滞在ののち、京都大学理学部非常勤講師を経て、
平成3年2月より、理学部助手に着任された。氏は、地上および人工衛星による地磁気観測データの解析的研究に
取り組むとともに、平成2年から開始した太陽地球系エネルギー国際協同研究計画(STEP)では、データ交換のための
計算機ネットワーク構築に重要な役割を果たされた。
 
 この間、亀井氏は理学研究科附属地磁気世界資料解析センターの一員として、地磁気データの収集・サービスにも
多大な貢献をされた。特に技術的に困難であったロシア北極海沿岸部にある地磁気観測所からのデータ転送と
それを用いた AE (Auroral Electrojet) 指数の準リアルタイム算出の実現や、中・低緯度の地磁気観測所から収集した
データを基に算出され、磁気嵐の指数として用いられるDst指数の準リアルタイム算出の実現に中心的役割を果たされた。
これらの貢献に対し、国際地球電磁気学・超高層物理学協会(IAGA)執行委員会は、本年7月、学界に対し重要な
貢献を長期間した研究者・技術者に与えられる "IAGA's Long Service Medal" を同氏に授与することを決定した。
授賞式は来年7月イタリアのペルージアで開催される同総会で行われることになっているが、受賞者本人が出席できなく
なったことはまことに残念である。
 
 
 
 
                リアルタイムAEの例(2006年9月24日)
 
 
 
5.TOYOHISA KAMEI -- An Appreciation
 
Toyohisa (Toyo) Kamei was a rare individual. He was intense about his activities but friendly to everyone with
whom he had contact. He cheerfully participated in the choir at our church (singing hymns with the weekly choir
during the months he also rehearsed for the Christmas special: Handel's "Messiah"). He was very welcome among
our choir.
But Toyo also sang Beethoven's Choral movement of the 9th Symphony with the excellent Boulder Summer Music
 Festival. He was a talented singer and participated with enthusiam.
 
Toyo and I cooperated on scientific projects involved in analysis of the significance of the Auroral Electrojet (AE)
magnetic activity index and studied the correlations between all the most-used geomagnetic activity indices. These
results were presented in several papers and at the IUGG meeting in Canberra, Australia.
We worked late hours to complete a monthly "International Magnetospheric Study" (IMS) newsletter and often at
midnight Toyo would bring out the lovely ceramic cups sent by his Grandfather and conduct a formal "Tea
Ceremony". Years later I enjoyed the experience of this same ceremony in his Grandfather's Tea House in the yard of
 his family home.
 
Toyo worked effectively to install and connect remote magnetometers in Siberian locations in cooperation with
Russian scientists. This was an important part of the success of his work to produce a quick-time AE index that
could be provided on-line to assist all scientists who needed prompt information about magnetic activity in the
auroral zone.
To promote this networking, Toyo received a financial grant from the ICSU Scientific Committee on Solar Terrestrial
 Physics (SCOSTEP).
His report to the SCOSTEP Bureau about the use of the funds and all that was accomplished under the grant was a
model of good presentation and Dr. B. Schmieder (France, IAU) commented "This is the most important use of any
SCOSTEP grant that has been reported to us!".
 
Toyo worked hard during the years he was at the National Geophysical Data Center (NGDC), but he also played
hard. He often visited in our home for meals and stayed afterwards to challenge my wife in a game of "Scrabble" or
 to play "SHOGI" with me. He hiked in the mountains, visited on the family ranch of an NGDC colleague (he
helped shovel out the horse stable), went fishing with me, and travelled across country by car with another colleague
 to attend the Scientific Assembly of the International Association of Geomagnetism and Aeronomy (IAGA) in
Seattle, Washington. He was "good company" to all of us.
 
My wife (Charlotte) and I visited Toyo in Kyoto and were pleased to spend some days touring the city with him and
 stayed in his family home. We especially enjoyed watching the Japanese World Series with his parents and could
observe their enthusiasm for the sport that so well matched Toyo's enthusiasm for life in Boulder and all other places
 he visited.
 
My first encounter with "Sushi" was with Toyo at an international meeting in Hamburg, Germany. At that meeting
we also spent hours in discussion with Prof. Masahisa Sugiura about aspects of geomagnetism and also the
importance and pleasure of music.
The three of us enjoyed paella together in a memorable feast.
 
In later years I was touched to see the efforts made by Toyo to help Sugi travel to scientific meetings. He made it
possible for Sugi to participate longer than would otherwise have been possible. During a visit I made to Japan, Toyo
 kindly drove to the "Satellite City" to meet me and drove me to visit magnetic observatories and to join Sugi in
Tokyo. We enjoyed our time together to have long discussions about a world of topics.
 
Toyo was a especially skillful computer person, but he matched this with his equally important inter-personal
relations with his associates. I will keep the e-mails we exchanged over many years and especially during early
months of 2006 when I was recovering from heart surgery. Toyo seemed much more concerned with my successful
recovery from serious surgery and various hematologic complications I experienced than he was with his own
deteriorating health condition. He was a dear friend and will be missed, but our memories of him will remain vivid.
 
 
                                                   (Joe Haskell Allen − 元scientific Secretary of SCOSTEP)
 
 
 
6.亀井豊永氏の貢献
 
  亀井豊永氏の修士論文(1973年)のテーマは、マイクロフィルムに複写されたマグネトグラムの自動読み取り装置の
試作であった。これは、フライングスポットスキャナー(ブラウン管の一種)の輝点でフィルム面を走査し、透過光を
TVカメラで検出して輝点の輝度と座標を読み取る装置であった。マグネトグラム上で2成分が交叉する場合は、
ソフト的に連続する成分を判定する必要があり、ハード・ソフト両面の知識を必要としたが、亀井氏は、当時、既に
電子回路/計算機の高度技術を身につけていた。
 
 1976-1979年に国際磁気圏観測計画(IMS)が実施され、米国海洋大気局(NOAA)太陽地球物理データセンター
(NSGDC;コロラド州ボールダー市)に IMS Coordination Office が設置された。亀井氏は、IMS計画への日本の
協力の一環として1977年にこの Office に派遣され、ボールダーで2年間を過ごし、上司のJoe Allen氏のもとで、
データセンターの運営を知り、国際感覚を身につけた。
 
 1981年、NSGDCのSTP部門の維持が危うくなり、学界への重要なサービスとして続けてきたオーロラエレクトロ
ジェット(AE)指数の作成が困難になった。この問題は国際地球電磁気学超高層物理学協会(IAGA)で議論され、
World Data Center(WDC)-C2 for Geomagnetism を運営する京大地磁気世界資料解析センター(DACGSM)
の協力が要請された。DACGSMは、1978-79の2年分に限って算出を引き受けたが、その後の関係機関の強い
要望により、AE指数作成を継続することになった。亀井氏は、家業を手伝う傍ら、非常勤講師としてAE指数算出
システムを作り上げ、その後も継続してその算出を担当した。当時のセンター長、前田坦先生の科研費で購入し
たミニコンFACOM-U200を使い、金属ペンの上げ下げで作図するXYプロッターがAE指数のグラフ作りに活躍した。
 
 1983年夏、亀井氏は、英国チルトンで開かれた WDC Computer Expert Meeting に出席した。WDCパネルの
A.H.Shapley氏は、この会での亀井氏の働きを高く評価する手紙を送ってきた。亀井氏は、この後、ハンブルグの
WDC Panel委員会に前田先生の代理として出席している。
 
 最初の低高度(350-500km)磁場観測専用衛星 MAGSAT(1979年打上げ)のデータは、研究計画書が認められた
グループには米国内外を問わず同時に公開された。前田坦先生を代表者とする京都のグループは、このデータの解析から
赤道夕方子午面電流渦を発見したが、亀井氏は、この解析に大きな貢献をしている。
 
 1985年8月に米国航空宇宙局(NASA)から京大理学部に移られた杉浦正久先生は、NASAのSPAN(Space
Physics Analysis Netwotrk)通信ネットワークの普及に努力された。当時は、インターネット普及の遙か以前であり、
亀井氏の努力により、1987年9月にKDDのVenus-P公衆回線で接続された京大のグループがe-mailの便利さを
最初に知ることになった。杉浦先生の移動に伴ってDst指数も京都で作ることになり、亀井氏がそのシステムを構築し、
以後の算出を担当した。
 
 太陽地球系エネルギー国際協同研究計画(STEP;1990-1995)を始めるに当たって、STEP国内委員会第7班
「データ解析・データ交換」は、データ解析のため「学術情報センター(NACSIS)回線を利用した特定目的ネットワークを
作り、gatewayを通じてUNIX計算機を結ぶ」ことを主要目的に設定し、1987年からその準備に取りかかった。当時の
NACSIS回線のプロトコルはX.25で幹線の太さは384kbps、その内、特定目的に使えるのは48kbpsであった。ここでも
亀井氏は、gatewayの選定、通信実験、他ネットワークとの交渉、周辺部のネットワーク接続などに活躍した。
 
 AE指数算出には、オーロラ帯に沿う12観測所のデータを使うが、そのうち4観測所がロシアにある。ロシアで
は磁場観測のデジタル化が遅れていて、アナログマグネトグラムの読み取りに時間がかかっていた。1991年の
ソ連邦崩壊以後は、ロシアの地磁気観測所の維持が困難になり、AE指数算出に必要なデータの入手が難しく
なってきた。事態改善のため、DACGSMは、ロシア関係者の招聘、DACGSMとモスクワ(WDC-B for STP)での
アナログマグネトグラム平行読取り(デジタイザー・PCの供与)、ロシア地磁気観測のデジタル化、デジタルデータ
取得についてSTEP Working Group6.4(責任者:M. Teague氏)との協力、通信総合研究所(今のNICT)と共同での
GMS(日本の気象衛星)経由のデータ取得の実現等に努めた。亀井氏は、これらのプロジェクトの中心的実行者として活躍した。
 
 1988年に地磁気1分値を通信回線経由で集めるIntermagnet計画が始まり、1991年からは杉浦先生を代表者として
日本もこれに参加することになった。この年に常勤となった亀井氏は、これにも熱心に取り組んだ。1988年から2000年までの
彼のIntermagnet会議出席と観測所訪問の外国出張は16回に上っている。その結果、地磁気1分値のリアルタイム取得が
実現して、1996年には、Quick-lookのAE指数・Dst指数が公開できるようになった。1999年のIAGA会議(Birmingham)で、
Ching Ming氏(APL,JHU)から、ロシアの地磁気データ取得について協力の申し出があって、菊池崇氏を代表とする
CRLグループと共にPURAES計画が始まり、ロシア観測所整備とデータ取得が進んだ。
 
 彼の計算機についての高度な知識は学内でも一目置かれ、メーカーの人も含めて多くの相談事があり、理学部の
UNIXを用いた図書情報システムの構築にも大きな貢献をした。
5年前、亀井氏は不幸にも病魔に冒されたが、手術や治療の合間に出勤して仕事を続けていた。2004年11月に
筑波で開かれたIAGA Workshopでは、病身を押して組織委員会の総務を引き受け、外国人の世話などに献身した。
 
 亀井氏は、エレクトロニクスと計算機の知識を駆使して、世界の地磁気観測、データの取得・流通、地磁気指数作成等に
貢献した。論文を書くよりは学問の基盤整備が天職であると思っていたようで、我々には面倒で出来れば避けたいと
思える地味な仕事を、手抜きせずに工夫を凝らしてやり遂げ、独自の世界を作り上げた。日本の大学のシステムでは、
彼の働きに見合う処遇が出来なかったが、彼は頑固に自己流を貫き、国際的に高い評価を得た。彼の精神は、
死の直前まで安定していて、いつも職務を気にしていた。病んでなお仕事への情熱を持ち続けながら逝かねばなら
なかった彼の心中を思うと涙を禁じ得ない。一途さが周囲を困らせることもあったが、彼を失って改めてその穴を埋めることの
困難さに気づき、学問界への無私の貢献の大きさに頭が下がる。心からご冥福をお祈りしたい。
 
 
                                                                         (荒木徹 − 京都大学名誉教授)
 
 
 
7.亀井豊永君を悼む
 
  亀井君と私は、昭和41年(1966年)に京都大学理学部に入学して以来の長い付き合いでした。教養課程で
同じクラス、大学院の修士、博士課程でも、同じ地球電磁気学研究室でした。それ以降、亡くなられるまで、地磁気観測や
宇宙天気研究分野で、多くの協力関係を築いてきました。彼は、大学院時代からハードや計算機に強く、地磁気データ
(当時は紙やフィルムが媒体でした)を自動的に読み取り、デジタル化するシステムの開発に没頭していました。
アナログ記録の地磁気データを使った方はよく分かると思いますが、データのラインがかすれていたり、背景の白地に
斑点があったり、また、速い変化だとデータに飛びがあったりで、これを自動的に読み取ることは至難の技のように
思えました。この困難な仕事に挑戦していた彼のひたむきな姿が、強く印象に残っています。
 
 私は、博士課程では、地磁気データ解析のほか、電場伝搬モデルの研究をしていましたので、解析関数の近似計算
などで計算機をよく使っていました。当時の大型共用計算機はジョブを入力すると、結果は数時間後、運が悪いと
翌日という具合でしたから、学生の試行錯誤的な研究には、大変時間がかかりました。こんなときに、研究室に導入された
ばかりのミニコンを使うよう彼に勧められ、おかげでずいぶん能率よく計算することができました。私は博士課程で
テーマを変更したために、3年たらずの期間しかありませんでしたが、短期間で結果を出せたのも、彼のおかげと
感謝しています。今でもミニコンのプリンターが結果を打ち出すパタパタという音と、ミニコンを操作する彼の姿が
思い出されます。
 
 1976年に、私は電波研究所(現情報通信研究機構)に職を得て、京都大学に残った彼と接触する機会がなくなり
ましたが、1988年の宇宙天気予報プロジェクトの開始とともに、データベースやネットワーク関連の仕事、そして地磁気
データのリアルタイム収集計画(INTERMAGNET)などで、再び、一緒に仕事をすることになりました。気象衛星の
データ回線を使用する許可を得るために、亀井君、杉浦先生、柿岡の担当の方とともに気象庁にお願いに行ったのを
皮切りに、データ伝送のハード・ソフトを亀井君が担当し、私が渉外や予算の心配をしたりと、分担して共同作業を
進めました。お互い、学生時代とはすっかり違っていたはずですが、気心が知れていたと言いますか、仕事はずいぶん
順調に進んだと思います。INTERMAGNETの国際組織には、亀井君がメンバーとして参加し、京都と東京で開いた
会議のLOCも彼が中心でした。2000年に入ってからは、アメリカやロシアの研究機関と共同して、AE指数やDst指数の
リアルタイム化のプロジェクトを立ち上げましたが、この計画でも、亀井君が中心的な役割を果たしました。特にリアル
タイムAEでは、シベリアの5個所に磁力計を設置してデータを収集しましたが、技術的な問題、税関の問題等、
そして彼の健康の問題と、多くの問題に直面しました。亀井君は、自身の健康の問題を抱えながらも、辛抱強く
これらの問題を解決していき、リアルタイムAEを実現しました。この計画で、京都大学とNICTのグループが協調し
、主導的な役割を果たすことができたのは、彼の裏表のない人柄と、抗ガン剤治療を続けながらの超人的な努力と、
それに、長年培ってきた私たち相互の信頼関係があったからだと思います。
 
 亀井君は、研究論文には結びつかない仕事や、人が賞賛しないような仕事でも、手を抜かず、誠意を持ってやる
人でした。私にとって、長年の友人であったということを除いても、気持ちよく一緒に仕事をやれた人でした。彼の
誠実で前向きな生き方は、私たちに大きな感銘と励みを与えてくれました。謹んで、亀井豊永君のご冥福をお祈りします。
 
 
                                                      (菊池 崇 − 名古屋大学太陽地球環境研究所・教授)